心というものは,周知のもののようでいて案外わかりにくい。意識や無意識をも含めたある内面的なものを総称して,「心」と呼んですましている。それで,さして日常を生活するのには困らない。日常ばかりか,文学や学術の世界においてさえ,心は精神や意識などの言葉とごちゃ混ぜに使われていて,平気である。
 教育の世界では,よく「豊かな心を育てる」などのことが言われる。どうすれば心が豊かに育つのか。その方策についての話し合いが,よくなされる。
 その時,教育の世界で「心」とは何かを問うことはタブーである。誰も,的確な答えを出せないからである。「心」について,誰もがわかっているものと見なして,議論が進む。「心とは何か」を議論する場は,実は学校教育の世界ではどこにもない。それはわかっているものとして,話は進む。けれど,もう一度言う。誰も自信を持って心がわかると言えるものなど,一人も居やしない。自分の心でさえ,自由に取り出してみせることさえできないのに,まして,他人の心がわかるわけがないではないか。そう,思う。が,それでも,「心の教育」などと,臆面もなく,論議され,仕事の一部として割り当てられている。
 学生時代,教育心理学,児童心理学などで心の発達を学習した記憶はある。たいていは,忘れている。また,生きた個々の子どもたちを,そこに当てはめて考えようとするには無理がある。どだい,きれいに整理されてはいるが,心についての一部の記述であり,その時はそうとらえていたという域を出ないものである。時代が変われば,変わる可能性は,ある。また,今現に生きて動いている子どもの心を止めて,紙の上に情報として整理することも不可能である。
 よくわからないものに対して,「豊かな」などの形容詞をつけて,いかにも,何か意味ありげに装う。これなどは,骨粗鬆症である。中身がすかすかだ。
 そもそも,心とは何かがはっきりしなければ,本当は豊かに育てようにも育てようがない。
 仮に「豊かな心」が,ぼくたちの意識に浮沈する内面の豊かさだとして,いったい,他人の働きかけで心が豊かになったり貧しくなったりするものかどうか。もしも,社会による計画的な働きかけであるところの公教育などにおいてしか,心を豊かに育てることができないのだとすれば,昔学校のない時代を生きた人々の心は均しく貧しいものだったと言えるだろうか。もちろん,そんなことはない。
 だが,情操教育や,道徳といったようなもので,子どもの心は変わる,と考えられているふしが,ないでもない。つまり,教養や知識の豊かさで,量れるものと見なされているような,傾向は,ある。
 世間一般では,なんとなくそれで「あたりまえ」と思われていて,いわば,心の問題を教育に下駄を預けた状態になっている。だが,「心」といえば,昔は「煩悩」の世界そのもので,日本でも,高名な宗教者が修行と煩悶との行き来の中で,やっと宗教的な理解の仕方として己の中にねじ伏せることができたところのものだ。教員の資格試験や採用試験で,ちょこっと心について触れた程度で,理解できるような代物では,決してない。
 要するに,教養や知識が「豊かな心」のバロメーターであるというような,現在の一般常識的なとらえ方に,ぼくはある種の疑問を感じてきた。それは違うだろうというのが,本音の思いだ。教育は,主にものの見方考え方を教えるところであって,「心の教育」などできるはずがない。そもそも,「教育」しえないから「心」なのだとも言える。
 教育によって得た教養や知識で,「心」が推し量れるものなら,極端に言えば野蛮人の心はみな貧しいということになる。身近なところで言えば,赤ん坊や幼児の心は,貧しいとなる。そんなはずはないのだ。まして,教養も知識もあふれるくらい持ち合わせいる,いわゆる名士と呼ばれる人々において,心貧しき行いが見受けられることも決して少ないことではない。「心の教育」を言うなら,そういう人たちに向けてこそ実践して欲しいものだ。それ以外では,有害ではあっても,益するところはない。そう思う。
 実は,学校というものは,無意図的な心のふれあいの場とはなっている。人との交流,事物や事象との交流は,自動的に,心を動かすのである。子どもたちの心は,そこでは気流のように自在に変化し,生き,動いている。それを,何か実態あるかのように取り出して,物のように扱おうとするのは,また矯正をかけて修正できると考えるのは,どこかが変である。それは,気象を,人間の都合で自在に変えられるか,ということに似て,状況に応じて,傘をさすとか衣服の調節をするとかに似た対応をするほかないのである。そしてその対応が,いつもベストになるとは限らないどころか,ベターにさえならないことが多々ある。このうまくいかないところが,ぼくたちのこの生きる現場なのだ。そこを,良い加減で生きる力。先生たちは,誰もがそれを実践している。つまり接することを通して推測される子どもの心に対応して,世話を焼いている。その実践者たちを,脅したり,舐めたりしてはいけない。先生たちに,はじめから完璧な対応が可能であると考える方が,おかしいのだ。先生たちも,有識者や,文科省や,教育事務担当者たちの言におびえる必要はない。指導の研究も,多忙な活動も,一切いらないと思う。極論すれば,自分のありのままを,素材として子どもたちに提供する,そういった心構えが先生という仕事の一番の鍵になると思う。それ以外はすべて副次的なことだ。ぼくは,そう考えてきた。そうして,教職を辞した。
 
 心とは何か。それを,解剖学者の三木茂夫さんは,いくつかの著書において明快に論じてくれていた。
 心とは,生物学的に言えば,心臓に象徴されるところの内臓に,その根源の働きを考えればいいと言うのだ。内臓の働きが心の元になっているということ,それである。
 そして,心の涵養にとって,乳幼児期における唇や舌や口腔,手などの諸器官を上手に使ってのなめ回しが,基礎とも言える作業であることが言われていた。いわゆる,こうした時期に,内臓の感受性を高めることが,健全な心を育むものであり,感受性を高めてやるための見守り,接し方が大切なのだという。
 内臓には,生き物の本能を顕現する「食と性」の機能が,「種」それぞれに応じた形態で配置されてある。この,生き物にとって最も肝要な臓器の在り方,その感受性の発達が,心の形成,あるいは心の動きそのものに全く無関係であり得るはずがない。素人ながら,三木さんの著書を読んで,ぼくは,そう思った。もちろんぼくたちの身体の,内臓以外の部分,体壁系についても感受性は鋭敏にはぐくまれている方がいい。その上で,森羅万象に鋭敏に共鳴する心の豊かさというものが可能になってゆくと三木さんは考えていた。つまり,心にとって身体がいかに大切かということ,とりわけ,内臓の本来の機能を考えれば,その健全な育ちが,いかに心の形成にとって決定的な意味を持つかがいわれていた。
 三木さんは,二,三歳児の,言語修得の時期の大切さということも,その後の心の形成に大きく影響することを強調されていた。言葉の入出力に伴って機能する諸器官の,機能そのものの開発,器官相互の連携,それらが十全になされるように配慮すべきだという。 二,三歳という時期,脳を象徴する「頭」と,内臓の特に心臓を象徴する「心」とは五分の割合で調和していると考えられる。「頭」の働きは,「心」に遅れてやってくる。「心」のめざめは,脳の発達により不分明な何かとして脳に到達し,乳幼児の行動を規制する。さらに,言語の修得を待って,いよいよ「頭」の働きというものが活発化してくる。
 人間の心とは,だから,言語獲得の衝動を促す母体であり,言語獲得以前の「もやもや」を指すものだと考えた方がよい。それはもともと脳とは別のシステムからやってくる何かであり,ただ,脳という別のシステムにしか映し出されるほかないから,まるで夢のように現れる以外ない。それは身体の個別性が,ある共通へと唯一開かれた薄い半透明の窓口なのだ。そう言ってみたい誘惑に駆られる。
 ぼくは,三木茂夫さんの著書(主に,「内臓のはたらきと子どものこころ」築地書館)にふれてから,そんなことを思ってきた。
 もう,乳幼児の段階において,心の基礎は固まってしまっている。学校に入ってからどうこうできるものではないし,すでに手遅れなのだと考えるべきであるかもしれない。
 三木さんは,内臓感受が素直に大脳皮質にこだまするように,乳幼児期にその感受性を高める必要性を説いていた。あえて,そこに付け加えるとすれば,吉本隆明さんが言うように,胎児の時期に理想的な母子関係が育まれることが重要であると思う。すでにその時期から,「心」の眼の萌芽とともに,母性的なものの全体が受け継がれているのかも知れないと考えられるし,内臓を始めとする身体の形成が行われている。母親の理想的な愛情が,その形成によき影響を与えないはずはない。そう,ぼくは,考える。
 ところで,もう一人の解剖学者。今が旬だと言われている養老孟司さんは,当然のように「心」は「脳の働き」と言う。(「スルメを見てイカがわかるか!」角川)
 養老さんの言うところは,現在の学者さん及びその周辺における世界での「心」のとらえ方の常識を反映しているに違いない。それならば,その常識は世間一般に敷衍しているのだろう。
 ぼくは,このことに引っかかりを感じてきた。つまり,三木さんの言うところは異端で,特に学界などでは受け入れられない考え方ではないのか,というように。三木さんの説に共鳴するぼく自身もまた,どこか「常識」や「あたりまえ」をはずれたところで,不毛の思考に彷徨い続けているのではあるまいか。そんな不安があった。
 と,同時に,いや,これは同じことを言っているのだが,その表現が指示する方向,どこに身を置いてものを言っているのか,が違うだけではないか。そういう,勘も,働いていた。
 明らかに,人間の身体において「脳」の存在を考えなければ,「心」を感じたり,意識することはできないだろう。だが,しかし,逆に,身体を持たない「脳」だけの存在を想像してみると,それは単なる物質的な存在にすぎず,ここでも「心」の現れなどあり得ようはずがないということになる。
 養老孟司さんと対談している(「スルメを見てイカがわかるか!」角川)茂木健一郎さんは,
 
  私たち一人一人は,それぞれ一個の脳を持っている。「私」という世界でたった一つ の存在は,脳によって生み出されている。「私」がどのようなことを思い,考え,感じ るかは,大きさが一リットルほどの脳という臓器によって決まっている。
 
と,述べている。これはたぶん,養老さんも同じ考え方をしているのだろう。
 「脳」が存在しなければ,「思い,考え,感じる」などをぼくたちは意識できないことは確かである。だが,これでは「脳」がすべてであるかのような勘違いを生じるおそれがある。また,「脳は,心を生み出す臓器である。」とも述べているが,これは,かえって三木さんにならって,「内臓は,心を生み出す臓器であり,脳は心を心として反映する器官である。」といった方がよりよい気がする。
 「脳」は,生きることの中心である「内臓」の「うねり」,及び他の感覚器官,その変化を受け取り,それを「心」として出力しているととらえるべきではなかろうか。だから,茂木さんが,「どれくらい豊かな人生の体験ができるかということが,脳のメンテナンスのありようによって決まってしまうのである。」と,言いたい気持ちもわからないではないが,「脳」ばかりではなく,「内臓」の,「身体」の,メンテナンスこそ第一義に考えられなければならないように思う。生き物の起源に近いところでは,「脳」を持たない生き物は多い。それらは自らの一生を「食」と「性」に捧げて生き死にしている。こうした,人間で言えば内臓系に起源を持つ「食」と「性」の本能の声を,人間は「脳」の働きによって感知するがゆえに,すべての生き物への「あわれみ」や「いつくしみ」という「心」の出力があり得るのだ。そう,思う。
 
 心について,いわば素人のぼくがなぜ考え始めているかと言えば,そこに現在的な「病」というものを感じているからだ。もちろん,かつて詩や小説の中の心のありよう,たとえばドストエフスキーの「罪と罰」に描かれたラスコーリニコフの心理にとらわれたことのある経験,その延長上に,この関心があるといえば言える。
 自分の中に,世間一般の中に,特に昨今はこの「病」を想定せずにはいられなくなっている。不安や恐怖というとらえ方は,文化系的なものだが,「病」というとらえ方は理科系的な意味合いを持つ。自分でどうこうできるものではないという,システム的な障害が顕著に見えてきている。そこに大人と子どもの区別はつかないように思う。ただ,子どもたちの方が,ある意味サンプルにしやすい,初期症状の典型が容易に見て取れるという気がしている。例えばに過ぎないが,不登校,引きこもり,キレル,などのような形で。
 小学校の教員という,公教育に携わってきて,昨今の事件事象をどうとらえるべきかしっかりとした理念も理解も自分にはなかった。有識者の意見も,聞くに値しないことが多かった。ぼくはただ,いい加減に子どもに向き合っているほか術がなかったのだ。
 ここを誤解してほしくないのだが,「いい加減に向き合う」ことの重要さは,教員を批判するすべての人々,報道,諸団体などに向かって言っておきたい。
 養老さんが言っているように,「スルメを見てイカがわかるか」の世界だ。すなわち,イカをスルメにする力は持たないが,「生きもの」としてのイカそのものに接して,イカそのものを活かそうとする努力,それは大変なものだと言うことである。苦労も多いが,何よりも,それ自体が評価されるべき仕事だと言うこと。この再認識を,外の世界に向けて発したい。先生たちを大事にして欲しい。同時に,先生たちに安易に成果を期待しないで欲しい。もっといえば,教育に,目に見える成果を期待しないで欲しい。
 昨今の教育の世界は,外部からの批判,圧力に耐えかねて,様々な対策を講じざるを得なくなっている。しかしそれは,よく考えるとわかるのだが,すべて弁解のための対策となっている。言い訳を動機として,仕事が組まれている。これがおかしいと,気づいているものは少ないかも知れない。だが,確実にそうなってきている。例えば,敷地内禁煙の問題。また,不審者対策の問題,学力向上の問題などなど。
 子どもたちと上手く接すること。安心を与え,不快でない空間で,毎日が暮らしていけるように,先生たちが日々努力する。これは「頭」でできることではない。これこそ,「心」の仕事ではないか。そこで,子どもたちは他人の「心」というものに気づき,自らの「心」の有り様を反省する。心の教育とは,畢竟,以心伝心の効果であるといわなければならない。
 ぼく自身は,限界を感じて,この三月,定年前に学校を去ることにした。子どもたちと上手く関わろうと心を砕くだけならば,これは,まだできたかも知れない。また,勉強を見てあげる,教えてあげるだけならば,まだ出来たかも知れない。だが,そのほかの余計なことが今の学校には多すぎる。その一番は,成果を求められるようになってきたということかも知れない。勉強が,嫌だと体全体で主張する子どもにまでも,学習の成果を植え付けなければならないようになってきている。勉強なんか,どうでもいいじゃないかというものはいない。また,ぼく自身,子どもたちと,「心」を通い合わせることに困難も感じてきた。子どもたちの「心」が,つかめなくなってきているのだ。
 子どもたちの,「頭」の働かせが早すぎる。ぼくは,何故かそう思ってきた。「心」は,意識でコントロールできないから,「心」なのだ。善悪を行ったり来たりする,いい加減な行動が生きることにはつきまとうものであることを,身をもって感じることが,人間理解や社会生活にはとても大切なことなのだ。「いい加減」ということは,「良い加減」にも通ずる。そういう考えが,子どもたちの前にも,通用しなくなった。だから,学校をやめた。大人ばかりではなく,子どもたちからも「心のふれあい」の価値は,抜け落ちてきている。内臓の声を聞けない「頭」が,内臓のつぶやきに気づかない「頭」が,強制される綺麗事にはめ込まれ,はめ込まれた自分を「自分」だと思いこんでいる。また,そういう「自分」が価値だと信じ込んでいる。
 この勢いはとどまることをしらないだろう。なぜなら,「自然」が,身体的にも意識的にも遠ざかってきて,最早帰る術がないように思えるからだ。これは,別の言葉を使って言えば,アジア的な農耕社会が完膚無きまでに崩壊する過程が,日本において進行していることを意味する。親和的で,互いを許し合い認め合う風土が,ぼくたちの生活からは失われていく。その意味で,教育は今,やっと敗戦に立ち会っている。ぼくは,そう,認識している。誰も,そうは言わないが。
 こう考えるぼくの目には,大人たちも子どもたちも,建前での綺麗事を言い過ぎると映ってならない。いや,ジャーナリストたち,世間一般の人々,みんなが「環境保護」だとか,「国際協力」だとか,「禁煙運動」,「ボランティア」,「省エネ」等々,立派なことを言い過ぎる。
 ぼくは決して「善」なる行いを否定するわけではないけれども,アドバルーンが上がっているからみんながこぞってバーゲン会場に集まって行くみたいな,そういう現象が不安でたまらない。次から次へとアドバルーンは上がり,人々はただ,それを追うことを強制されているように見える。
 これが病態として同じ症状と思われるのは,全体を考慮しない,上っ面だけの言辞に聞こえることだ。表の言辞だけは清潔で,底に流れるどろどろには蓋をしている。これは,「病」でなくてなんだろう。流布される言葉に,乗り遅れないためにだけ,さらに言葉が流布されてゆく。そこには,「生きる」ということに対する,決定的な誤解がある。「心」の病,「頭」の病でなくて,何だろう。植物でもあり,動物でもあるところのわれわれの身体は何処に行ってしまったのか。
 身体の抱える問題は,綺麗事ではすまないはずだ。つまり,頭で理解しただけではない,生身の人間として,そこに,その時に,生きて,感じ,身につけた,その個人だけの生活観・社会観・世界観が,あるはずなのだ。それが,どこにあるのか,個々の人々からそれが消えてしまった。その問題に目をふさいで,世の中は共通意識中心で動くものだというような錯覚を形成している。「やばい」と感じるのは,ぼくだけだろうか。ひとまず身を引いて,養老さんが言うところの「強制了解」の埒外に出よう。それがぼくの決意の,もうひとつの理由だった。
 
 三木茂夫さんは,現代は頭(脳)優先の時代で,人間は精神を使いすぎることによって「いかなる動物よりも動物臭くな」ってきたというゲーテの言葉を引用し,際限のない人間的な欲望の露出の結果である現代の諸問題が,人間の生物学的な宿命に起因することを明らかにしていた。目的のためには手段を選ばずに獲物を獲得する。獲得のためには,ありとあらゆることを考え,計画する。「我」を利するための,巧妙な,頭(精神)の働きは,「心」(心情)との調和を破り,好むと好まざるにかかわらず,つまり無意識のうちに,暴走し始めている。そう,警鐘を鳴らしていた。そのことは,どんなに,「人のため」,「世界のため」,「愛や平和のため」などという優しげで人道主義的な言葉を羅列してみても,ついにはその流れにのみつくされてしまう生物学的な宿命なのだ。そう,三木さんは考えていたと思う。
 もう一人の解剖学者であった養老孟司さんも,意識社会,脳化社会,などの言葉で,意識中心となったこの世界に警鐘を鳴らしている。
 この二人は,脳の働きのすごさを徹底して認めるとともに,脳に突き動かされる人間,その果てに,人間の種としての自滅が待っていることを予感している点において共通していると,ぼくは思う。そして,何とかしたいと考えたときにこの二人が向かうところは,どちらも子どもの世界だった。
 三木さんは,先にも挙げたように,内臓の復権を唱えていた。そして,それは,乳幼児の世界から始めなければならないものだった。
 養老さんは,保育園で体験教育に携わっているという。
 この社会には,文句が言えなくなるような強制了解の力が働いていて,結果,その中での考えが押しつけられ,不自由にしかものを考えることができなくなる。これに拮抗するには,抽象的な思考を越えた教育効果を持つ体験が必須なのだ。だから,小さな子どもの自然体験なのだ,そう,養老さんは言っていると思う。
 
 
1 養老孟司的「心」
 
 小学校の教員として子どもたちと接しているうちに,こういえば分かるに違いないと考えて授業を進めても,よく理解できていないのではないかと思われることがよくあった。
 子どもの理解のメカニズムはどういうことになっているのか。自分の場合,そういう方向にどんどん疑問を感ずるようになった。
 また,子どもは子どもで,どうも悩みを抱えているらしい。そしてそれは,自覚的であることはあまりなくて,ただ当人の日常的な挙措のうちに見え隠れしている。それまでに,当然と考えていた「心」についての理解では,目の前の子どもについてさえはかれなくなったしまっていた。
 もっとある。頻繁に報道されるようになった,諸々の社会現象に登場する少年少女たちが,何をどう考えてそうした事件,事象の当事者になってしまうのか。
 教育者として,たとえ三流の教員に過ぎないとしても,こうしたことに自分なりの解がもてなければならない。そう考えると,しかし,それまで常識的にとらえていたことが,根拠のない砂上の楼閣であって,全く一から理解の仕方を組み立て直さなければならないもののように思われてきた。
 既成の学問,知識の上に立って,諸現象を,また子どもの実際を分析してみせる教育者,教養人の言葉に,物足りないものを感じたのだ。実感として,それは違うと思ったといってもいい。
 学者の卵でもないぼくが,こんなことを考えるようになって,それがいったい何になるかと言われるかも知れないが,ぼくにとっては止むに止まれぬことであった。
 
  心という言葉を使わないでなんといっているのか。たいがいは「脳の働き」といって  います。([スルメを見てイカがわかるか!]P8)
 
 これは,養老さんの言葉である。
 
  心について議論するときは意識の議論をしなければなりません。ところがその意識と いうのは,定義が難しい。だから議論の対象は言葉になります。(同P19)
 
 このあと養老さんは,ロボットに,人間と同じような言葉と意識のシステムを作って埋め込めば,ロボットにも,外から見て,心があるかないか分からないぐらいのものができるだろうと言っている。
 ここで,ちょっと疑問を感じるのは,確かに,心を考える時に意識や言語の問題を考えなくては済まないが,意識や言語を扱えば,それで心の問題はすむのかということだ。それは脳の働きの一部として,心を考えることになりはしないだろうか。そして,ぼくらが呼んでいる心とは,そういう小さなものか。そういう疑問が湧いてくる。
 もうひとつ読み進めている本の中に,次のような記述があった。
 
  これまで心理学や言語学が文系で,生理学が理系であった背景には,「心は特別なも のであって,脳細胞と心とのあいだには,越えがたい一線がある。」という根強い考え があるためではないか。確かに,「脳の活動」という客観的な変化が,「心のはたら  き」という主観的な経験を生み出すのは,たいへん不思議なことだ。この主観と客観を むすびつける「仕組み」は存在するのか,もし存在するのならばそれは何か,という問 題は,哲学でも議論されてきた。第1章で説明した「言語化」のはたらきは,主観的な 経験を客観的に表現する高次の仕組みである。脳から心へ,そして言語に至ることで, 客観―主観―客観というサイクルが実現することになる。その意味でも,脳と言語の結 びつきは重要である。
 
 これは酒井邦嘉さんという人の「言語の脳科学」(中公新書)の中の記述である。
 これらから言えば,養老さんにしても酒井さんにしても,心は,脳の働きがあって生み出されてくるもので,言語,意識と不可分のものという見方がなされているということができる。逆に言うと,意識や言葉なしに,少なくとも人間的な「心」の問題は語れないということを言っている。また,それは必然的に,脳があって心があるという,言ってみれば,脳の下位に心というものが位置すると見なすことになっていると思う。
 心とは何かを考えるときに,「ヒトの心」を前提として,そこに限定して考えると確かに養老さんや酒井さんの言う通りなのであろうし,そう考えるべきものなのだろう。
 けれども,これでは考えるということが心であるみたいな印象も残る。考えるということは心のはたらきなのか。
 ふだんの生活の中で,ぼくたちは考えることも含めて,言葉を伴って自分に意識される動きを総称して,漠然と,それが心であると考えている。それは自分の内部に生起し,また消失する,ある動きのようなものである。覚醒時には,それは川の水のように,止めどなく流れ続けているもののように思えている。もちろんふと,それを自覚せずにいる瞬間もある。例えば何かの行為に集中しているとき。逆に,自問するかのように心に真正面から向き合っているように感じる場合もある。
 だから,心というものを考えるとき,生活者のレベルにおいても,言葉や意識を伴うものが心なのだと体験的に考えているということは言えそうである。
 しかし,例えば性欲のような,心の体験としてもやもやしたものを感じさせることを考えたときに,果たして,心を脳内の出来事,脳の働きの中に閉じこめて考えていいのだろうかという疑問を感じる。性に絡む心の体験は,これを直接的な脳の働きといってすませられるのだろうか。ぼくはそこに,大きく生殖器官が関与して来るに違いないと考える。俗に言う,下半身が言うことを聞かない,ということ。
 考えてみると,ぼくの場合,思春期を迎えてから今日まで,性的イメージが心に浮かばなかったという日は一日たりともなかったような気がする。自身,煩わしさを感じるくらい,頻繁に思い浮かんでいたように思う。これはなぜなのか。若いころには,自分の心の醜さのようにも実感されたそれは,一生涯の心的な体験としては,根拠のないいい加減な数字だが,三分の一ぐらいを占めるくらいではないかとさえ思う。もしもぼくが異常なのではなく,たいがいの人はそうなのだとすれば,もう一度心とは何かという問いが返ってくる。つまり,案外,心はひも付きなのではないか,というように。そしてそれは,身体,特に内臓の諸器官に,ひも付きなのではあるまいか。そう思われるくらいに,どうも影響されているような気がしてならないのである。
 内臓感覚。また,特定の女性を見て心臓がドキドキするといったような,外界の変化がもたらす内臓の反応に,心は深くつながっているような気がする。これは,心の起源が,言語以前の問題であることを示唆するものではないのだろうか。
 ところで,同じく酒井邦嘉さんの「言語の脳科学」の中に,『機械は心を持つことができるか?』と題して次のような記述がある。
 
  それでは,あと何十年かしたら,心を持つコンピューターができるだろうか?私の答 えは,イエスである。人間と同じようにチェスの思考をするコンピューターを作るのは 難しいが,人間の相手ができるチェス・コンピューターはすでに存在する。人間と同じ ように心を持つコンピューターを作るのは難しいが,人間の会話の相手となるコンピュ ーターは,チューリング・テストの合格者が現れる頃に実現するだろう。だから,心を 「持つように見える」機械を作ることは十分できるだろう。
  アメリカのSF作家,アシモフの短編を映画化した『アンドリューNDR114』  は,近未来をうまく言い当てている。高性能ロボットのアンドリューは,自力で知識を 吸収できるという能力を持って生まれた。いろいろ失敗もするが,そのたびに新しいこ とを学んでいく。だんだん,人間とうまく会話ができるようになる。確実に人間の世界 に適応していくアンドリューの振る舞いを見る限り,たとえ心のからくりが違っていて も,心を持つことは疑えない。
  それでは,ロボットと人間の違いは何か?結局,心の有無では,ロボットと人間を区 別できないことになる。第1章で説明した生命と心の階層性を考えると,心のレベルで 決着がつかないなら,生命があるかどうか,すなわち不老不死かどうかを問うことにな る。しかし,ロボットの体に老化する素材を用いれば,ロボットもいずれは死を迎える ことになる。ここまで来ると,最早ロボットを人間と認めざるを得なくなってしまう。 この物語のラストシーンは,そこまで踏み込んでみせた。
 
 この先生はいったい何を言いたいのだろうか。膨大な時間と労力をかければ,人間と見分けがつかないロボットが作れることを言いたいのだろうか。科学は,それを可能にすると。
 科学者たちがそうしたことに血道を上げて取り組むことはいっこうに差し支えない。そうしてたぶん,そこまで行くだろう。そのことによって,いろいろな発見や認知の広がり,深まりがもたらされるだろうことも予測はつく。けれどもどんなに精緻で人間に近似のロボットができようが,作り物は作り物にしか過ぎまい。自然と人工との溝は,決して埋まらないものだとぼくは思う。養老さんが言うように,蟻一匹,ハエ一匹,未だに人間は作れていないし,自然の一部にしか過ぎない人間が,さらにまたその一部でしかない人間の脳が,今後膨大な時間と労力をかけて取り組んだとして自然のシステムを拵えられるとはどうしても思えない。そもそもが矛盾であるだろう。
 「たとえ心のからくりが違っていても,心を持つことは」疑えない?
 仕組みが違っているのに,その現れが似通っているからといって,どうして同じものだと言えるのだ。身体の仕組みが違っていたら,人間に非常に近い仕組みを持ったロボットの身体が出来ても,それはやはり人間の身体とは似て非なるものだ。心についても同様であろう。
 人間とは何か,心とは何か。
 酒井さんが,「心のからくりが違っていても,心を持つことは疑えない。」と言う時,その心は,何か知識を吸収する能力を持ち,学習能力を持ったもの,と単純化して考えているように読み取れる。また,死を迎えるような老化する素材を用いたロボットを,酒井さんは,死を免れない人間に対置して考えている。
 膨大な知識と,教養を兼ね備えた学者先生の,これが人間や人間の心というものをどうとらえているかという洞察力を示す言葉なのか?そう,ぼくは疑問に思う。ロボットにでも可能になる,そんな程度にしか,心というものを考えていない。
 この本には,学問や研究の分野で,優れた知見,成果が表されているのかも知れないし,素人のぼくには初めて知ることが多く教わるところが大きい。けれども,引用した記述からは,「なーんだ。結局のところ,中身はこんなものか。」,そういう感想が否めない。もちろん,「この物語のラストシーンは,そこまで踏み込んでみせた。」という言い回しによって,場合によっては自分の言葉ではないと言い訳できるような小細工はなされている。しかし,もちろんそんな言い訳は通用しない。
 何のことはない。頭のいい子どもの遊びじゃないか。そう,思う。脳の仕組み,言語発生の仕組み,それを脳と言語を使って解明しようとする知的なお遊びじゃないか。何かが欠落している。倫理,あるいは単純に生きることに付きまとう苦労,そういってもいい何かが,足りないのだ。論理に,大衆とか庶民とかで呼び習わされた人々の持つ,血と汗と涙と笑いが含む陰影がない。いや,心に悩まされた経験,翻弄された体験,それが考察の底に感じられない。だから肝心の所で薄っぺらい本音が顔を出す。これは政治家の言説,言動に近く,ある特権に居座って,自分がそういう特権に居座っている自覚がないところから必然的にやってくる何かだ。彼らには,そういう研究に没頭できるという特権は,特権だという自覚がなく,ただ当たり前のことのようにその環境を享受して研究に邁進しているに過ぎないかも知れない。だから,ぼくの批判めいたことは中傷誹謗のたぐいに思われるに違いない。もちろん,ぼくの言葉は彼らの耳に届くことはあるまいし,仮に届いたところで彼らが聞く耳を持つことはないだろう。それはそれでいい。
 学者をはじめとして,世間的にエライ人たちと思われているらしい人々への物足りなさは,いつもこういうところにある。なんだ,それが本音かい,それが動機かい,それが出発点かい。そんなところだ。苦悩がないじゃないか。太宰流に言うと,そういうことになる。自分に対する否定の感情を,抱かないで済んでいる。下層の庶民が持つ,自虐も自己卑下も無縁な世界で,高貴な仕事に従事していやがる。けれども,と下層庶民のぼくは思う。きみたちの解明する世界は,いつも世界の半分しか解明できないことは先験的なのだというように。もちろん,解明とその成果は,ぼくのそれよりも遙かに優れていることもまた先験的だ。だが,いつか必ず越えてみせる。制度上に乗っからなければ為しえない,そういう思いこみや,脅迫から,自由にならなければ,本当にみんなのためになるものなど出来やしない。出来なくてもいっこうに差し支えないから,実はどうでもいいことだ。その認識の上に立って,どこまで行けるか。ぼくはそれをぼく自身の楽しみとし,生き甲斐とする。ぼくの前には彼らの提出した成果があり,その成果をありがたく頂戴することが出来る。
 ついでに,いま人気の養老孟司さんにもひとこと言っておこう。マスコミにちょこちょこ顔を出して,調子に乗るな,ということだ。学者は学者でもっと本気でやってくれよ。「バカの壁」や「死の壁」くらいの著作で,それがたくさんの読者を得たからといって,それで終わり,なんて話にもなんにもなりはしない。解剖学の研究の成果を,ぼくたち一般人にわかりやすく,そしてぼくたちがそれを知り得ないために人生を躓くような事柄について,参考になるようなことを,提供して欲しいものだと思う。
 要するに地位や名声を得た連中は,もっと社会貢献を死ぬ気で果たすべきじゃないかという話しだ。自分だけは何でも知っているようなにこにこ顔で,ブラウン管に登場するな。むこうがわには,理由もなく,生きることを追い立てられるように苦しんでいる連中が五万といるんだぜ。その連中の神経を逆なでするような,訳知り顔は,見ているこちらも胸くそが悪くなる。神が存在しない限り,そうした弱者,下位層,無知なる者,病者,犯罪者,もろもろの救済に働くべきは,きみたち以外ないじゃないか。それを自覚しろ。
 
 思わず話がそれてしまった。元に戻そう。
 煩悩の世界。食欲,性欲といった欲の世界。心には,そういったどろどろとした不可解な意識とも無意識とも言い切れない部分が含まれる。何かから強いられる,何かから突き動かされる。そういう部分があるのではないか。もちろん意識自体がそうかも知れない。しかし,心の問題を意識の問題としてしまうと,心を小さなものにしてしまうおそれがある。そう,ぼくは思う。心は,脳の働きを抜きにしては語れない。しかし,心を脳の働きとして考えることは,心の矮小化を免れない。そういう,人間のよくわからない心というものが,どこからどのようにおこってくるのか。言語以前,意識以前のものとして,それ以前のところから考えなければならないと思っているのだ。
 
2 三木茂夫的「心」
 
 三木さんの著作,「ヒトのからだ―生物史的考察」に次のような記述がある。長いが,以下に引用してみる。
 
 (植物性器官) 腸管からは,消化−呼吸系のさまざまの器官が分化し,血管は背側が 動脈性に,腹側が静脈性になり,しかも腹側の一部が極端に分化して,心臓を形成す  る。また,排出管は縦に分かれて二本になり,その一本は尿を分泌する特殊の血管(糸 球体)と結びつき,他の一本は,性腺と結びついて,それぞれ泌尿および生殖系の諸臓 器へ分化していく。
  つまり,呼吸―循環―排出をいとなむ腸管・血管・排出管の三種の内臓管が,それぞ れ分化して,内臓の諸器官となるのであるが,特に重大な変化はこれら内臓管の壁に筋 肉が発達し,そこへ神経が分布するようになることである。
  すなわち,植物性器官へ動物性器官の一部が,しだいに張り出してくる。このような 筋肉や神経を,〈植物性筋肉〉および〈植物性神経〉とよぶ。これによって無脊椎動物 では,一般に管腔のせん毛運動によって,行われる内容(食物)の運搬が,ここでは管 壁そのものの蠕動運動によってなされるようになる。しかもこの運動は,植物性神経を 介して管の内部からだけではなく,からだの外からの変化にも,いちいち敏感に応ずる ようになり,しかもこれはさまざまの腺の分泌運動によって,さらに色どりがそえられ る。
  植物性器官に現れたこのような興奮性は,われわれ人間に至って,ひとつの頂点に到 達するものと考えられる。もろもろの現象を心で感じとり,ひとつのすがたにまで仕上 げていく,いわゆる“心情の作用”は,このような植物性の興奮と密接な関係があるの であろう。
  “心の動き”という言葉は,この端的な表現であって,ここからわれわれ人間の心情 作用と,植物性器官,特に心臓との切っても切れない関係を知ることが出来る。“血が のぼる”,“胸がおどる”なども,この心情の動的な側面を,心臓で代表される植物性 器官の動きによって,いわば生物学的に表現したものということができる。
 
 (動物性器官) 脊椎動物では,外皮の一部が著しく分化して,各種の感覚器官を作  り,この大部分が,からだの全面に配列することになる。また,神経鎖は神経管となっ て,腹側から背側にその位置をかえ,その前端が著しく分化して脳となり,神経網は末 梢神経となって,この神経管と連絡する。一方神経管の腹側には,新たに全身の屋台骨 として脊索が一本走り,これがしだいに骨化して発達するが,やがてここから四肢が萌 出し,この四肢の支柱として骨格系が新たに形成される。
  つまり脊椎動物では,受容―伝達―実施をいとなむ外皮・神経・筋肉の三層は,それ ぞれ独自の分化をとげて,無脊椎動物で一般には見ることのできないような,高度に分 化した動物性諸器官を形成するに至るのである。
  脊椎動物の歴史をふり返ってみると,これら動物性諸器官の分化はまことにめざまし い。すなわち,しだいにその勢力を内臓諸器官にまでおよぼす一方,栄養の大部分を消 費してしまうのである。これは脳に分布した豊富な血管によってもはっきりと知ること ができる。
  ここでさらに注意しなければならないことは,これら動物性諸器官のなかで,神経  系,特に脳がしだいに著しい発達をとげ,人類に至って,ついにある頂点に到達したと いうことである。もろもろの出来事を抽象し,これらを事物として概念的に把握すると いう,いわゆる“精神作用”は,このようにしてうまれたものといわれる。“頭の働き ”という言葉は,この端的な表現で,われわれは,ここから精神作用と脳との切っても 切れない関係を知ることができる。“切れる頭”,“石頭”,“頭を使う”などの用例 は,すべてこの精神の作用を,脳のひとつの働きとして,生物学的に表現したものとし てみることができよう。
  (中略)
  われわれは,心臓と脳によってそれぞれ代表される植物性器官と動物性器官の関係  を,動物分化の歴史のなかでながめてきたのであるが,そこで一見してわかったこと  は,動物性器官が植物性器官をしだいに支配するようになる,というひとつの出来事で あろう。
  それは,生の中心が,心臓からしだいに脳へ移行していくという出来事であって,こ のことは,“心情”の機能が,しだいに“精神”のそれによって凌駕されつつある人類 の歴史に見るまでもなくあきらかなことであろう。
 
 「ヒトのからだ」の最後の項『ヒトと動物のちがい』では,ヒトにおける〔こころとあたま〕の発達を取り上げ,例えば次のような記述がある。
 
  こうして,動物性器官が植物性器官に向かって,しだいに侵入をはじめるのである  が,この傾向は脊椎動物においてにわかにあきらかになる。すなわち,植物性器官のす べての管のまわりを,しだいに筋肉がとり囲み,ついには,これらが神経を介して,目 や耳などの感覚器官とも連絡を持つようになってくる。つまりはじめは,ただ管の内容 に応じて収縮と拡張を営んでいたこの植物性筋肉が,ついには外界の変化にもいちいち 影響を受けるようになる。われわれヒトの植物性器官,なかでも循環系の特に心臓にお いて,このような傾向が,もっとも著名に見られることはいうまでもない。
  われわれが,外界の出来事のなかで,いわゆる食と性に関する以外の出来事にもいち いち心をうたれるのは,だれしもこれを否定することはできないであろう。
  動物ではほとんど開かれていなかった“心の窓”が,こうして人間に至って,初めて 大きくあけはなたれることになる。
  われわれの心は隣人の心とかよい,また動物たちの心ともかよい,ついには植物から 四大の心とも共感するようになる。
  (中略)
  ヒトの心は,以上のように,動物性器官の構成要素である筋肉や神経が,植物性器官 へ強く介入するところから,しだいにめざめていった。
  われわれはしかし,このような心の発達とともに,動物性器官そのものにも大きな分 化がおこったことを見逃してはならない。遠隔感覚器の発達,大脳皮質の異常な分化, 直立の姿勢と手の働きなどがそれであろう。人間におけるこれら動物性器官の特殊な分 化は,はじめに述べた心情の発達と切り離して考えることのできない問題であるが,こ こでは,その中で特に目立つ脳の発達をとり出してながめてみよう。
  一般にヒトと動物との根本的なちがいは,理性のあるなしできめられる。“考える葦 ”という表現に待つまでもなく,われわれヒトはつねに考えるのである。これは,もの を見ては考え,考えては行動をするというわれわれの日常を見ればあきらかであろう。 動物の世界にはおよそ見られない光景である。
  われわれヒトでは,受容―伝達―実施の過程が,自然の意のままに行われる動物とは ちがってその伝達の過程において,ある種の“待った”がかかる。
  自然の流れをせきとめるこの働きは,一般に〈精神〉とよばれるが,これが動物性過 程に進入して,感覚および運動の二つを大きく支配するようになる。
  (中略)
  これまで述べてきたことを総合すると,動物性器官が,しだいに発達して,これが植 物性器官に介入したとき,ヒトに至ってまず,心情がめざめ,この世界が開かれる。次 いで,動物性器官のやむところのない発達は,さらに精神の働きをうみ出し,この働き が,逆に植物性器官を大きく支配するとともに,やがては心情とはげしく対立するよう になる。つまり,ヒトのからだでは,このように植物性器官に対する動物性器官の介入 が,二つの段階に分かれて行われたことがわかる。 
  いまこれを人類の歴史のなかでながめると,そこにはまず,豊かな心情にみちあふれ た先史時代が幕を開き,次いで精神が全体を支配する歴史時代がこれにつづく。この大 きな流れがヒトの赤ん坊の生いたちに,いわば象徴的に再現されることはいうまでもな い。子どもの中に同居する“けがれのない心”と“手のつけられぬわがまま”は,この 間の事情を端的に物語っているのではなかろうか。
 
 以上,長々と引用したが,三木さんのこういう考えから,心についての原初の在るべき姿がイメージされてくるのではあるまいか。口は,唇などに囲まれている実態のないものであると言われているが,心もまた,脳の働きや内臓の動きからもたらされる,実態を持たない動きそのものである。その由来についても,三木さんの考えは,大いに説得力があると,ぼくは,思っている。
 また,三木さんの考え方からは,人類も動物と分かちがたく意識を持たなかった闇の時代を持ち,言語を持たない長い時代があったことが,想定されているように感じとられる。図式的に言えば,心も頭の働きも持たなかった,いわば動物そのままの時代。言語がなく,それゆえに頭の働きもないに均しいが,脳が発達して,まず心情だけがめざめ,心の働きだけがあった時代。さらなる脳の発達によって頭の働きが活発化し,言語を獲得し,心情と対立するようになっていく時代。こういう段階が,想定されているように思う。人類が言語を獲得する以前に,心があったかなかったかを推測することは重要である。言語なしで怒ったり笑ったり悲しんだり,その時期をぼくたちは忘れているが幼児期に経験してきている。赤ちゃんの表情が,それであることを教えてくれる。言語以前に,心が目覚めていることが,赤ん坊を見ていると読み取れる。ヒトの心とはだから,起源から言えば言語以前であり,動物以後である。
 頭の働きと言語の獲得とが分かちがたく進んでいくと,それ以後は頭の働きが飛躍的に発達していく。
 三木さんの考えに,学問的な曖昧さや,科学的な根拠の希薄さがもしもあるとしても,ぼくにとってはとても魅力的な考え方だ。少なくとも,ぼくを引き込んで,生物学,発生学,形態学といった三木さんの全著作に向かわせる魅力があった。
 これに比べると酒井さんの本は,知識や科学的な視野の広さを感じさせはしたが,無味乾燥な文章といった印象が強く,素人には読み進むのが苦痛でさえあった。どちらが学者の論文としては評価されるのかはわからないが,過去にさかのぼって現在を読み解く三木さんの方法が,ぼくにはすばらしいものに思えて仕方なかった。
 三木さんの言うところを単純に受け取れば,心は内臓の興奮,すなわち動き,に由来していると考えることができる。自らによってか,外界の変化に反応してか,要するに内臓の動きが心の動きに転化すると見なしている。これは,例えば,血がのぼる,胸がおどる,などの言葉に象徴させて考えてみれば,納得がいく。古代の人は,よくこの内臓の興奮を見つめ,素直に感受し,これまた素直に言葉に表したものであろう。
 三木さんは,心の働きと頭の働きとを分けて考えている。心情作用と精神作用というように。こうした分け方は,生活の中では容易にはつかみにくい。そういうちがいを,いちいちには心情だ,精神だとは自身の中で分別して受容することは不可能だ。一般にはだから,心情も精神もごちゃ混ぜにして「心」と総称している場合が多い。そういうとらえ方からは,心は意識の問題であり,言語の問題であるというように探求の矛先が向く。しかし,内側に分け入って考えれば,三木さんのようなとらえ方もあり得るのだと思う。言うまでもなく,日本では昔から,心は心臓に,考えることは頭すなわち脳に象徴させたとらえ方をしてきていたと思う。三木さんは,それを継承するかのように,それに生物学的な根拠を与え,示すことができたのだと思う。
 あえてこれを経済学的な言葉で言ってみれば,心情作用は交換価値(価値の源泉)であり,精神作用は使用価値(流通)という側面を持っているということができるだろうか。文学的に言えば,不易と流行であり,もちろん心情が不易で,精神は流行となる。風景に感動するとか,異性に思いを寄せるとか,そういう古代からあまり変わらない部分が心情にはあり,知識の蓄積に伴う認識の拡大や文明の進歩によってその時々に大きく変化し,流転する精神がある。
 こう考えてくると,“あたま”のもとになるというか,基盤になるのが“こころ”であり,“心情”はまた,新たなる“精神”を生み出す基盤であると考えることもできる。また,“こころ”や“心情”のもとになるのは当然身体であり,またその大本は内臓にあると考えていけばいい。
 ぼくたちが,思い,考え,思考することは,心の支えがあってこそのことであるならば,心がどのように育ち,それが健全であるかないかは,どのように思考するかに,実は大きく影響していると言うことになるのだろう。
 三木さんは,植物が「自然」を内包し,自然の変化に従って感応しながら生の営みを繰り返しているように,ぼくらの内臓が本来の「自然」のリズムとの交感の機能が発揮できるようにその感受の質を高めることが大切だと述べていた。それは,とりもなおさず,四囲の「自然」,「宇宙」に共鳴できる(意識できる,ではない),健全な心情を育成するための,不可欠のベースであるというように。その具体的な手だては,「内臓のはたらきと子どものこころ」(築地書館)に書かれている。また,この著者についてのぼくの考察は,「心の現在」によってなされている。                      心をどうとらえたらいいかについて,ぼくなりの理解の仕方は少しずつ明瞭になってきている。もう少しすれば,自分の言葉で,言えるようになるのではないか。そう,期待しているところがある。そこまで行きたいと思っている。この文章は,ぼく自身の中で,ぼく自身のために,問題の所在はどこにあるのか,焦点をどこに合わせるか,等々をはっきりとさせ整理する目的を持って書かれている。満足できたわけではないが,「次」が見えてきている。それは別な展開として,新たな文章の中で行っていきたい。ひとまず,この文章はこれで終えることにする。             2004.5.28